RUMI ITOH




『諏訪根自子先生の思い出のページを追加しました。
『ヤナーチェク弦楽四重奏団との思い出のページを追加しました。
 


わたしの中学時代
ピアニスト 伊藤ルミ    

(兵庫県子ども文化振興協会 発行「会報2011」掲載文)
 
 
    神戸市灘区にある市立福住小学校から松蔭女子学院中等部に入学したのは、もう半世紀近くも前のことになる。松蔭は家から近く、受験の心配をしないで幼いころから始めたピアノに打ち込めるようにと母が選んだ学校だった。母は、明るく自由な校風やシャレた制服も好きだったらしいが、私はゴンタな男子との学校生活におさらばできるので女子校は嬉しかった。松蔭は英国のミッション・スクールで、毎朝礼拝があり聖書を読み賛美歌を歌った。英語には特に力を入れていたので自然に英語が好きになったし、一年生から油絵を描くこともできた。

 最初の油絵の時間に真っ白な制服にベッタリ絵具をつけてしまい、何度洗濯しても取れずにその夏服を高校卒業まで着ていたことが思い出される。毎日の生活はあいかわらずピアノピアノで明け暮れた小学校と同じで、クラブ活動や遠足にも参加せず、放課後や休日にクラスメートと遊ぶこともない日々が続いていた。家では「練習しなさい!」と毎日怒られていたので、学校ではその反動で思いっきりマイペースに過ごした。先生から見れば問題児で、退屈な授業では机の下の推理小説などに熱中していたし、背中をまっすぐにしたまま熟睡するのは得意技だった。クラスで1時間中立たされたのも私が最初だったし、あれこれ悪知恵を働かせて先生を悩ませ父兄呼び出しも何回かくらった。

 そんな元気いっぱいの私がガラリと変わったのは二年生の一学期も終わるころで、原因不明の腹痛に1ヶ月ほど悩まされた後、緊急入院手術をしてからだった。腹膜炎の一歩手前の虫垂炎だったが、一ヶ月以上入院し治療のため抗生物質を大量 投与
されてひどいアレルギー体質になった。それまでの疲れを知らない私が、朝から晩まで疲労倦怠感を覚えて過ごすようになる。それでもピアノ練習は義務で、なにより優先して毎日何時間も続けさせられていた。グランドピアノも買ってもらい、ピアノ線を何本も切るぐらい励んだおかげで、中学三年生のとき、師事していた故東貞一先生の還暦祝賀演奏会にプロのピアニストに混じって選ばれた。

 淡いピンクシルクのドレスを作ってもらいセミロングの髪をカールして大阪のサンケイホールのステージに立った。褒めたことのなかった東先生から「よかったですよ」とニコニコ顔で言ってもらったのを覚えている。私にとって中学時代を含む小学校から高校卒業までの12年間は、二度と戻りたくない苦しい時代であった。それなりに楽しいことや嬉しいことがあったはずなのにあまり思い出せない。それほどピアノというものの重圧に押さえつけられていたのだろうか。でも、小さいときに体力気力のギリギリまでがんばって毎日辛い練習に耐えたことが、その後の危機を乗り越える力を育ててくれたのだと思っている。
 
     



第101回「しばざくらコンサート」
『ラ・ミューズトリオ コンサート』に寄せて
西脇市アピカホール コンサート 2007年10月28日(日)
 
   
   深く味わい豊かな室内楽の中にあって、ピアノトリオは、「アンサンブル(室内楽)の花」と言われます。ピアノトリオは、調和を旨とする室内楽の世界にありながら、それぞれの演奏者が存分に個性を出し切るほうが魅力的な音楽になり、それゆえにもっとも華やかな音楽世界が表現できる分野だからでしょう。カザルストリオやゴールデントリオなど、古来から現在まで優れたソリストによるトリオ音楽が世界を魅了してきました。

 私はソリストとしてデビューし10年以上リサイタルやオーケストラとの共演にがんばっていたのですが、独奏の世界になじめす、ステージ活動を止めようと思い始めていました。そんなある日偶然、カーステレオからピアノトリオの曲が流れてきました。それは、メンデルスゾーンのトリオ第1番だったのですが、思わず聞き耳を立てました。そして、うっとり聞き惚れると同時に、いつの日かこの曲を自分でも弾いてみたいと強く思いました。しばらくして、チェコスロバキアの弦楽四重奏団と共演するお話が舞い込みました。私は一瞬も迷わず、憧れていた室内楽の世界に飛び込みました。本場の一流の弦楽器奏者の音楽と出合い共演し、彼らに認められることにより、自分の可能性を信じたいと思うようになりました。そして、それからは室内楽奏者としての演奏者の道を喜びを持ってひたすら歩んで行くことができるようになったのです。

 「ラ・ミューズトリオ」は、弦の宝庫と称されるチェコ/スロバキア共和国のエバルト・ダネル(ヴァイオリニスト)、ルドヴィート・カンタ(チェロ)とのトリオです。彼らは、スロバキアトリオとして世界的に有名なトリオを組んでいますが、幸いなことに現在は両名が日本に住んでいますので、2002年から私とトリオを組んで日本国内で活動しています。

 10月のコンサートでは、ラ・ミューズトリオのレパートリーの中でも一番のお勧めであるショスタコーヴィチ、世界初演の江藤誠仁右衛門氏の「荒城の月」をベースにした『変容』、私のもっとも好きなシューベルトの「死と乙女」、皆様におなじみのシューマンの「トロイメライ」をトリオとしてご用意いたしました。それらに加えて、「白鳥」、「ユーモレクス」など二重奏の曲も交えてバラエティ豊かなプログラムにいたしました。チェロのカンタは、日本に住んで14年になり、日本語も上手です。彼らとのおしゃべりを交えて楽しいコンサートにしたいと考えております。本場の弦の響き、ゆたかな音楽性、温かな人柄を彷佛させる彼らとのコンサートに是非ご来場くださいますようご案内申し上げます。皆様と会場でお目にかかれますことを楽しみにしております。
 
     



夢と希望が生まれ育つところ
「芸術センター」 2007年6月号
 
   
   12年前の1月17日、私たちの街・神戸はあの「阪神大震災」に見舞われました。多くの方が亡くなられ、多くの建物が壊れました。由緒ある神戸国際会館も全壊しました。神戸国際会館には2000席の大ホール、200席の小ホールがあり、市民の音楽や舞台芸術の核でした。中でも小ホールは私にとって特に思い出深いホールでした。

 高校卒業のときに、師事していたピアノの先生から「演奏家は地元を大切にしないといけない。だからあなたは神戸でデビューしたらいいですね」と言われ、この小ホールでデビューしました。クラスメートや親戚 な
ど考えられる限りの友人知人に集まってもらい、200席のホールは満席でした。温かい雰囲気に包まれながら演奏に集中できてピアニストとして幸せなスタートを切ることができました。それから二十年後、私のライフワーク「海外から演奏家を招いて共演すること」の第一歩となったのもこの小ホールでした。このホールなら、経済的にも集客の点でも少し無理をすればコンサートを作ることができましたから。この成功がきっかけで仕事も少しずつ広がり、現在まで毎年海外から素晴らしい演奏家たちをお招きして日本各地でコンサートを続けています。彼らも私とのヨーロッパでのコンサートツァーや録音活動に尽力してくれています。小さなホールは夢と希望の生まれ育つところなのですね。

 昨秋のある日、長い間工事中で何が建つのか気になっていた場所の側を通りがかり、工事看板を見ました。建物の名称は『神戸芸術センター』と書かれていました。「もしここにステキなホールができたら、なんとすばらしいだろう!」 私の胸は踊りました。幸い、この三月に、『神戸芸術センター』の設計・監理をなさっている村井敬先生にお会いすることができました。先生は「地域の芸術や文化を育てる為の建物を造りたい。そして建物だけではなく、そのセンターでのソフト面 も手がけて、若い人や子供たち次世代の文化や生活を豊かなものにすることが願いです。」とおっしゃいました。このセンターには、音楽関係の施設だけでも大ホール1、小ホール3、スタジオ1ができるそうです。
 
 感激した私は、村井敬合同設計の理念で運営されている『東京芸術センター』を知りたく思い、北千住に見に行きました。センター最上階(21階)にある「天空劇場」でのピアノリサイタルや東京芸術センター記念ピアノコンクールを聴き、その構想の独創性、出演するアーティストたちへの細やかな気遣い、受付や裏方、舞台進行などを務める合同設計の若い人たちの熱意に驚き共感しました。「やろうと思えば、ここまでやれる!しかも限られた少人数で」。 私の中に埋もれていた何かに火が点きました。

 来年の1月にオープンする『神戸芸術センター』。 「私たち、神戸の皆も力を合わせて頑張らなくては!夢と希望が生まれ育つところが、神戸に新しくできるのだから。」
 
 
 



私の好きな神戸
区画整理 2005年8月号
 
   
   神戸に生まれ神戸に育った私は、神戸がほんとうに好きです。結婚を決めるときも、転勤族であった夫に「退職したら、神戸に住むのが条件よ」と冗談めかして言ったことを覚えています。果 たして、結婚した年に転属になった夫、今日までの25年近く私は神戸と関東を往復して過ごしています。

 神戸といえば、阪神・淡路大震災のことを避けて語ることはできません。ちょうど10年前の1995年1月17日午前5時46分。それは起こり、その時、私は神戸市灘区の実家にいました。最初の揺れで、目が覚め「ここは神戸で、東京ではないはず!なぜ地震が!!?」と思ったのを覚えています。次の瞬間、「家が潰れる!!」と思うほどのすごい揺れが来ました。そして強烈な揺れと破壊音が治まると同時に、家族の安否を確かめました。家具や家の中は無惨な状態でしたが、幸い両親をはじめ家族6人、ネコ12匹、ピアノ、と大切なものはみんな無事でした。

 でも友人の若いピアニストが亡くなったことを震災のテレビニュースで知ったのはショックでした。年末に彼女と話したばかりで、将来の希望に燃えていた彼女の明るい表情がはっきり脳裏に残っていたからです。彼女以外にも何人もの知人が亡くなったり、家が潰れ避難所生活を余儀なくされたりしていました。毎日、テレビのニュースを何時間も見たり、給水車の列に加わったり、食料の買い出しに2時間も歩いて出かける以外は何も手につかない日々が続きました。その間、被災地の外からは多くのボランティアがきて援助活動をしてくれ、音楽グループも避難所などで演奏し皆を勇気づけてくれました。でも被災地内に住むアーティストたちは、「歌舞音曲は遠慮したほうがいい」というような雰囲気に押されて、なにもできないまま過ごしていたのです。そんなとき「アーティストがアーティストをアートの力で助けよう、そして市民や県民をも勇気づけよう」という組織が生まれてきました。「アート・エイド・神戸」。これによって神戸・兵庫の音楽家、美術家、詩人、文学者が一致団結して「地域と自分たちのために自分たちの職業で」動くことができるようになったのです。

 私はそれまで仕事として、「演奏活動」と「生徒のレッスン」という二足のわらじを履いておりましたが、震災で十数人の生徒全員がレッスンに来れなくなったことを機に、演奏だけに集中することにしました。責任のある生徒を預かっていては、海外でのコンサートのため日本を離れることが難しかったからです。以来、海外へコンサートに行くばかりでなく、毎年何組かの演奏家をお招きして国内でツアーをすることも多くなりました。震災の翌年に神戸新聞文化財団(神戸新聞松方ホール)が発足し、この財団との連携により海外の演奏家を招聘することができるようになったからでもあります。

 ヨーロッパや日本の各都市でコンサートをしますと、神戸の特色がより鮮やかに感じられます。神戸といえばまず自然に恵まれていることです。六甲山、摩耶山、市章山などの山々と穏やかな瀬戸内海に挟まれた坂の町。明るい光と流れる澄んだ空気を感じます。食材も豊富で質もとびきり、ヨーロッパで、「神戸のピアニスト」と紹介されますと、「コーベウォーター、コーベビーフを知っている」と即座に反応があるほどです。その上、国際港湾都市の文化が自然に融け込み、センスも培われてきました。そしてなにより、開放的な性格の人が多いのが神戸の特徴ではないでしょうか?「神戸で商売をするのは難しい」といわれたりしますが、そんな神戸で長くお店を続けてきた老舗は、商品と商品知識にプライドがあり、そして親切です。  

 あるとき、チェコ共和国からのヴァイオリニストが来日してすぐ、「ヴァイオリンの肩当てが壊れて、演奏ができない!」と途方にくれたような顔で言いました。コンサートは次の日からでした。元町にある弦楽器専門店「アルチザンハウス」を思い出し、一緒に飛んで行きました。ヴァイオリニストはそのスイス製の「肩当て」をヨーロッパ中で探していたそうですが、「本家のスイスにもない物が、神戸にあった!」と驚いたり喜んだりしました。私もどんなにホッとしたことでしょう。また、クラシックの演奏者にとって、楽譜はとても大事な物で、行った先々の国でめずらしい楽譜を探します。私が海外の演奏家に必ずご案内するのは、三宮駅の近くにある「神戸楽譜」。ここでいろいろな種類の楽譜を熱心に探している彼らを見るとき、私は神戸人として密かな喜びを感じます。また、ピアニストにとってのあこがれであるスタインウェイピアノが練習に使える松尾商会ショールームや、コンサート用の貸し出しスタインウェイを何台も常備している日本ピアノサービスKKがあることもありがたいことです。

 私は、東京にもよく行きますが、音楽関係以外のお買い物もほとんど神戸でします。神戸の経済を少しでも活性化させたいという気持ちもありますが、神戸はセンスのいいものがセレクトされているので、最小のエネルギーと時間でほしいものが手に入るからです。

 海外の演奏家も、新神戸駅に降り立つと、「Homeに帰ってきた!」と深呼吸し、心からうれしそうです。東京でのコンサートはキャリアとして大切にしている彼らですが、1週間もすると息苦しくなるそうです。このすばらしい神戸の自然そして特色を、神戸を愛する一人として大切にしていきたいと思っています。文化は一人ひとりの自覚と行動から生まれ育ってゆくものですから。
 
     


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